「安心」と「信頼」から見る、人の行動と社会の構造:異分野から経営のアタリマエを見直す 山岸 俊男②

安定した集団の中にいると「安心」はあるが閉鎖的社会になってしまう。しかし集団を超えて外と交流をしていくときには、その安心の呪縛から抜け出すことが必要である。その時に必要とされる「信頼」とはどのようなことか。そして現在の社会構造はどのようになっているか。社会心理学者の山岸先生にお話いただいた。

第四回 (2)「安心」と「信頼」から見る、人の行動と社会の構造

山岸 俊男
東京大学大学院総合文化研究科特任教授、北海道大学名誉教授。社会心理学者。
「安心社会から信頼社会へ」(中公新書)、「社会的ジレンマ」(PHP新書)等多くの著書がある。
2013年度文化功労者。

開かれた社会に

Q:社会の構造と「安心」「信頼」という点について教えてください

自分たちで固まって互いに助け合って、でも自分たちの仲間以外の人たちのことは知らないという社会をつくると、仲間うちではうまくいくし、知らない人とは付き合わないのだから信頼する必要もありません。それに対して、別の社会のつくり方があります。それは基本的には法律によって秩序をつくっていくやり方です。

集団主義的な社会のあり方は、法律がない時に有効な関係で、秩序をつくるために一番簡単なやり方です。仲間うちでお互いに目を光らせあっていれば、そのなかでは安心もできる。通常はそれで十分なんですが、そういう社会のつくり方をしていると、付き合いが集団を超えられないという限界が出てきます。このように安心できる仲間うちを超え、外の集団の人たちと交流をするときに、規則や法律をつくるやり方が使われるようになります。秩序をつくり、相手の行動を安心して予測できるようになるからです。

社会的な秩序のつくり方はいろいろあります。たとえば、中世の都市を考えると、その都市のなかでは問題なく済んでいたことが、都市間の交易が発達するとそれだけでは済まなくなっていきます。別の都市から来た商人が悪どい商売をしても、逃げ帰ってしまえば手を出せない。そうしたときに、その都市から来た別の商人の商品を没収してしまうといったかたちで相手の都市全体に連帯責任をとらせるようにすると、相手の都市が自身で、仲間が外で悪いことをしないように取り締まりを強化することになります。そのようにして秩序がつくられ、お互いに手を出せない都市間の取引も安心してできるようになります。

法律は秩序を仲間うちから拡大するための普遍的な行動原理なんです。法制度を整備する形で秩序をつくり、人々の行動を予測可能にしていくやり方と、仲間うちで互いに見張り合って悪いことができないようにするというやり方と二つということですが、前者は個人主義的社会、後者は集団主義的社会にあたります。

そのため、法制度は個人を集団から解き放つ役割を果たすことになります。仲間うちに頼らなくてもすむように、個人を守ってくれるのが法律です。そうすることで、仲間うちを超えた他者一般に対する信頼が育っていきます。他者一般を信頼できるような社会の中で、個人が自身の責任でリスクをとる生き方ができるようになります。集団主義とか個人主義というのは文化の違いだという見方もありますが、そうした文化の違いの背後には社会のつくり方の違いがあります。社会のつくり方に応じて倫理体系も常識も違ってきます。たぶん今の日本が直面しているのは、社会のつくり方の原理は変化したけれども人々の常識や倫理の体系が変わっていなくて、そこでミスマッチが起こっているという問題だと思います。

 

〝武士道〟からの脱出

Q:倫理の体系とはどのようなことでしょうか

ミスマッチの典型が利他性、社会性をどうつくっていくかというところに表れてきます。

倫理の体系が変わらないといけない、ということが一つ言えることなのですが、日本の倫理体系は武士道から影響を受けているのですね。武士道は自己の利益を考えないで倫理性だけを考えて行動することこそが正しい生き方である、というような考え方です。そういう倫理からすると、いつも利益を考えている商人は道徳的に劣った人間に見えてしまいます。だから商人は身分が一番低いということにされていた。ところが実際には、商人にも商人なりの倫理体系があって、目先の利益に目がくらんで人をだますような商人はやっていけないようになっていました。基本的には正直が大切で信頼を重んじるのが商人の倫理です。そうした倫理を身につけることで、「情けは人のためならず、巡りめぐって己がため」という諺にあるように、正直に、また利他的に行動することが自分自身の利益になり、今の言葉でいうとwin–winの関係を作ることができるようになります。

今の日本社会は江戸時代のように、支配者だけが倫理性を持っていればよい社会ではありません。生活が年貢によって保障されている少数の武士だけであれば、自分の利益を考えるなという倫理を通すこともあるいは可能かもしれません(実際には難しいと思いますが)。しかし今の社会で(黙っていても年貢が入ってくるわけではない)国民全員に利益を考えるなという倫理を押しつけるのは、とても無理なことです。そんな無理を強制しようとすると、みんな表面的に倫理を受け入れたようなふりをして、裏で勝手なことをやるということになってしまうでしょう。その結果、自分の利益を考えるなという武士道的な倫理を国民全員に強制しようとすると、逆に、国民のほとんどが倫理性をなくしてしまうという結果を生み出すことになるでしょう。そうなることを、私は一番心配しています。そうならないためには、商人の倫理である、正直さと信頼を基にしたお互いの利益を尊重しあう倫理を広めていくしか方法はないだろうと思っています。

混乱しているのは、倫理というとすぐ武士道的なことが浮かび、倫理性イコール無私の精神としてしまうことでしょう。商人道とは結局長い目で利益になるように行動するという考え方で、実際にそうなるシステムをつくっていかないといけないということなのです。

武士道と商人道を折衷するのは一番よくない形です。それぞれが成り立たなくなってしまいます。商人道は武士道が強調されすぎた結果、日本人の倫理体系にあまり入っていないですね。言い方を変えると、何か事があるともっと仲間うちで団結しようという方向になりやすく、もっと外に開いていこうとはなかなかならない。無意識にその発想が常識に入ってしまっているように見えます。社会をつくる原理の部分も同様で、制度や仕組みにも影響をしています。

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