日本の開化列伝~
第1回:百年先を見据えた男――後藤新平

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。

第1回:百年先を見据えた男――後藤新平

2020年8月19日

疫病感染拡大防止を成し遂げる

新型コロナウイルスの感染が日に日に拡大し、百年に一度の危機と言う人もいます。
今から125年前、現在と似たような状況で疫病の蔓延を食い止めた人物がいました。後藤新平です。

後藤は明治から昭和初期にかけての激動の時代に、壮大なビジョンを掲げ、公衆衛生、鉄道事業、都市政策、復興計画などの分野で多大な実績を残しました。しかし生まれた時代が早過ぎたのか、当時の人々には彼の描いた構想が理解されず、数十年後の時を経てようやく開花した事業もあります。

将来像が描けず、ともすれば目先のことに走りがちな中、今の私たちが後藤新平から学ぶことがあるのではないでしょうか。

後藤は安政4年、現在の岩手県水沢市に生まれました。
19歳で医師となり、24歳にして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)校長兼愛知県病院長としてのキャリアを歩んでいました。けれども若い頃から「一医師としてよりも国家をなおす医者になりたい」との志を抱いていました。

明治15年、「板垣死すとも自由は死せず」で知られる板垣退助が遊説先の岐阜で暴漢に襲われた岐阜事件が起こります。その時、名古屋から岐阜まで人力車を飛ばし負傷した板垣退助を診察しています。後藤は板垣を一目見るなり大声で「ご負傷だそうですな。本望でしょう」と言い、治療を受けた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたそうです。

その直後、内務省に送った国の衛生行政に関する意見書を読んだ局長が、一病院長としておくのではもったいないと採用。その後、ドイツ留学を経て、順調に出世し衛生局長になるも、その翌年、相馬事件(旧相馬藩の家督争い)に連座して半年にわたり獄中生活を送る破目になってしまいます。結局、無罪になるのですが、失職してしまいます。
釈放後、日清戦争が勃発。戦地では衛生状態が悪く、コレラや赤痢など伝染病が猛威を振るっていました。

戦争が終われば、大陸から24万人近い兵隊が復員してきます。そうなると復員兵と共に日本国内に疫病がもたらされる危険性がありました。
迫りくる「もう1つの戦争」。疫病の感染から国民を守らねばなりません。

この時、陸軍の野戦衛生長官だった石黒忠悳は後藤新平のかつての上司で、後藤の能力を高く買っていました。失業中の後藤に復員兵の検疫事業を担当させようと考え、後藤を連れて陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に面会します。
児玉が検疫にかかる経費を後藤に尋ねると「100万はかかるでしょう」と答えます。当時の100万円は莫大な金額です。これに対し児玉は「それならば150万出すので引き受けてくれるか」とその場で応え、後藤が受諾します。

戦争終結が近づいた明治28年4月1日、後藤は帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官職に復帰。わずか2カ月という短期間で、広島・宇品港似島、下関近くの彦島、大阪の桜島の3か所に巨大な検疫所をつくりました。似島では1日6千人、彦島、桜島ではそれぞれ1日3千人を検疫する計画を練り、総建坪22,660坪、401棟の検疫所を完成させました。検疫所建設の前後4カ月は、朝7時から夜9時まで椅子に腰を下ろした事はなく、43日間床に入らなかったといいます。なお、日清戦争後の検疫では消毒した艦船は687隻、総人員232,346人、その内コレラ患者総数は369人だったこの検疫を2カ月で完了させました。
これは世界史上にない壮挙でした。ドイツ皇帝は、ある日本人に「日本は凄いことをやった。感服した」と語ったそうです。

後藤はこの功績で、再び内務省衛生局長に就任します。

台湾の近代化に尽力

明治31年、上司だった児玉源太郎が台湾総督となると、後藤をナンバー2の民政局長に抜擢。そこで後藤は、現地の状況を徹底的に調査し、経済改革とインフラ建設を強力に推進しました。併せて総督府の複雑な組織をスリム化し、人事を刷新します。後藤はかねてより「人物や実力を見ず、出身や学歴で人を見るようでは国の将来は危うい」と公言していました。
伴食役人を大量にリストラし、代わりに優秀な人材を採用し抜擢。さらに多彩な人材を破格の処遇で招聘します。後藤が求める人材は専門能力があり、一大プロジェクトにかける情熱でした。その一例として、アメリカで病気療養中だった新渡戸稲造をスカウトします。新渡戸は殖産局長、糖務局長を務め、台湾の砂糖生産力を5倍に増産しました。そうして、8年間、後藤は台湾の建設のために尽力したのでした。

満鉄初代総裁に就任

明治39年、南満州鉄道が設立されると初代総裁に就任します。
満鉄は鉄道経営のみならず、附属地において都市経営や一般行政を担う広範囲な事業を展開。大連、奉天、長春では近代的な都市計画が進められました。今で言うならスマートシティ構想のようなものでしょう。満鉄で後藤がやったのは、役員同士がコミュニケーションを図り、情報が共有されるように役員室を大部屋にし、食堂も役員と一般社員とを区別せず一緒に食事がとれるようにするといった、現代にも通じるマネジメントでした。
ここでも台湾時代の人材を多く起用すると共に30代、40代の優秀な若手人材をスカウトし、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、近代的都市の建設に当たりました。

明治41年、第2次桂内閣が成立し、後藤は満鉄を管轄下に置くことを条件に逓信大臣・初代鉄道院総裁に就任。
逓信大臣としては、速達郵便、内容証明郵便を導入。郵便ポストを赤くしたのも彼です。度数制(利用回数課金)の導入を図るも、大口新聞社の反対によりこれは実現できず、大正9年まで待たねばなりませんでした。

17の鉄道会社が合併し鉄道院(国有鉄道)が創設されると初代総裁となりました。後藤は国鉄の官僚化を避けるため、日常の鉄道運営は課長、係長に任せ、局長、部長は社会経済の状況を見て事業の方針を指示する仕事に専念すべきとしました。人事について上層部は幹部人事だけを行い、下部人事については中間管理職に一任すべしとの指示も出しました。

経営の効率性を追求しつつ、鉄道全体の電気化に着手。
また国内の狭軌の鉄道を、輸送力拡大、乗客の快適性の面から世界標準の広軌にすべきと強く訴えましたが、議会の反対により潰され、これが実現したのは50年後の昭和39年、東海道新幹線開通まで待たなければなりませんでした。

首都をデザインする

ちょうど百年前の大正9(1920)年12月、東京市長に就任します。
後藤が発表した東京改造計画ともいえる「東京市政要綱」は、道路の整備、ゴミ処理、社会事業、教育、上下水道、電気ガス、港湾改築、公園、葬祭場、市場、公会堂など多岐にわたります。
当時、東京の予算が1億数千万円であったのに対し、市政要綱の必要経費には8億円要するとして、政敵から「後藤は大風呂敷だ」と批判され、計画は日の目を見ることができず市長を辞職。
その数カ月後の大正12年9月1日に関東大震災が発生します。

震災直後に組閣された第2次山本内閣では内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。
後藤の出した帝都復興の方針は、
「①遷都はしない
 ②復興費に30億円を要する
 ③欧米最新の都市計画を採用し、我が国にふさわしい新都を造営する
 ④計画実施のために地主に断固たる態度で臨む」
というもの。

後藤の目指したのは、復旧ではなく復興。震災をむしろチャンスとして世界に誇れる首都東京を構想したのでした。区画を整備し、宅地を定め、公園をつくる。幅広い道路をつくり、火災の類焼を避けられるようにする。コンクリートなど不燃建築物を建設することで災害に強い都市づくりを計画しました。
しかし国家予算の倍以上の30億円という巨額の予算に、またも「大風呂敷」と猛反対に遭い、復興予算は5億5千万と大幅にカット。当初の計画を縮小せざるを得なくなりました。

後藤は、やがて自動車が倍増することを見越し、道路建設に当たり、当初案では、主要道路の幅は70から90メートルという大規模なものでしたが、自動車が普及する以前のこの時代ではその意義が理解されませんでした。
しかしながら東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画が縮小されながらも実際に建設が行われました。
現在でもその断片を随所にみることができます。

昭和天皇は昭和58年の記者会見で次のように語っています。
「復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが、もしそれが実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、いまさら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います」

後藤はその後、政治の中枢に立つことはなく、東京放送局(NHK)初代総裁、ボーイスカウト日本連盟総裁として活躍。晩年は政治の倫理化運動に取り組み、昭和4年、遊説で岡山に向かう途中に倒れ、数日後に死去。享年71才。
倒れる3日前に残した言葉は、「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」。

コロナ禍の今こそ、大局的視点から事をなした後藤から学べることは少なくありません。

第2回は、「 島津斉彬の人材育成 」を予定しております。


自在株式会社 代表取締役 
根本英明

労働関係団体を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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