日本の開化列伝~
第2回:近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。

第2回:近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬

2020年9月16日

お家騒動を経て藩主就任

日本の近代化は、西欧列強の侵略への危機感から、西欧の先進技術を導入して富国強兵に努めるところから始まりました。
ペリーの黒船来航以前から薩摩、琉球にはアメリカ、フランス、イギリスの船や艦隊が通商要求のため、度々来航していました。さらにアヘン戦争翌年にはイギリスの測量船が琉球・八重山に来航し、兵員が上陸して測量を強行するといったことも起こっています。
島津斉彬は藩主世子だった頃から、隣国の清がアヘン戦争に敗れ、半植民地化されたことに大きな危機感を抱いていました。

時の老中・阿部正弘は、海外情勢にも通じ、英明な島津斉彬に早く藩主に就任して幕政への参画を期待していました。
けれども肝心の薩摩藩内では、斉彬の父である藩主・斉興が、嫡男である斉彬に家督相続したがりませんでした。その理由は、斉彬が斉興の祖父・重豪に似た「蘭癖」(西洋かぶれ)で、斉興の代でようやく黒字化した藩の財政を再び悪化させるのではないかとみられていたからです。

一方、斉興には側室お由羅の方が生んだ三男、久光がいました。お由羅の方は家老の島津豊後らと組み、久光を次期藩主に据えようと図っていました。藩主・斉興も久光に家督相続を考えていました。

斉彬と久光の兄弟自体の仲は良かったのですが、改革を志向する斉彬派と現状の安定を堅守する久光派とで藩内が分かれ対立することとなったのです。斉彬には多くの子女がいましたが、次々夭折したことで、斉彬派はこれをお由羅の方による呪詛と考えたのです。斉彬が排斥されることに危機感を抱いた一派は、お由羅の方とその一統の排斥を謀るも、事前に発覚してしまいます。藩当局は斉彬派の主要メンバー50数名に切腹、蟄居、遠島などの処分を下し、斉彬派を徹底的に弾圧しました。

これで斉彬の藩主襲封はほぼ絶望的に見られました。が、斉彬を高く評価する老中・阿部正弘が将軍・徳川家慶から斉興に隠居を命ずるよう要請。家慶は斉興に茶器を下します。これは暗に藩主に隠居を勧告することを意味しました。

嘉永4年(1851年)2月、斉彬は43歳にして晴れて家督を相続し、第11代藩主に就任しました。それから安政5年(1858年)7月の薨去にいたるまで、その治世は7年半。藩主として薩摩に滞在した期間はわずか3年半でしたが、その間に成し遂げた事業は目を見張るものがあります。

「倍返し」はナシ!ノーサイドで藩を一つにまとめる

藩主に就任するや、意外にも反対派・敵対勢力(久光派)に報復や排除をせず、そのままにしました。「倍返し」はありません。父、斉興の時に処罰を受けた者、島流しに遭った者もすぐには復権させず、しばらくはそのままに置きました。斉彬のために働いてきた藩士たちはいぶかしがりました。

斉彬に見出され、庭方役を務めていた若き頃の西郷隆盛は、大久保利通や有村俊斎(海江田信義)と計らい、お由羅一派を亡き者にしようと企てましたが、それを知った斉彬は激怒。
「お前はまだそんなことを考えているのか。いまは薩摩がどうのと言っている時ではない。日本が危機なのだ」と大目玉を喰らいます。

斉彬は、西欧列強から侵略されず、日本という国の独立を守る。そのためには天皇を敬い、幕府、朝廷、諸藩が挙国一致して富国強兵を行うことが必要だと考えました。藩の枠を越え日本全体を視野に入れていたのです。当時、今のような日本国という概念を持つ人は少なく、各藩はそれぞれが独立国のような状態でした。

これを実現するには、藩内が分裂しているようではだめで、ひとつにまとまることが重要と考えたのです。斉彬はさらに、この構想実現のためには、藩がひとつになるだけでなく、藩を発展させねばならないと考えました。

その要諦は大きく、
①農業を振興し、民が飢えることのない仁政を行う。
②教育制度を改革して人材育成を行う。
③外国の進んだ技術や文明を取り入れて工業などの殖産を行う、
の3つです。

農業振興に努める

「民富めば国富む」-。農業こそ藩政の根本であると考えた斉彬は、たびたびお忍びで農村の実情を探りました。
農民の負担を減らし、休養を取らせて、作物、農具、肥料等を改良させ、田畑の水利、開墾などの計画を立て、農産物を増産させました。琉球に来航したアメリカ船から贈られたオランダ芋(サツマイモ)は、南米産で長期間貯蔵できることから、普及しました。また藩主には珍しく、米価は民の生活に関係すると、米価を把握していました。
さらに「常平倉」をはじめとした仁政を敷き、人々が安定した生活ができるようにしました。
斉彬は経済政策にも明るかったのです。

人材育成改革の推進

藩主に就任当時、過去の習慣にとらわれた藩士たちは学問に疎く、腕力を支えとして武術に傾倒し、天下の情勢にも暗かったといいます。このような風習を正そうと人材育成にも積極的に取り組みました。薩摩といえば郷中教育がよく知られていますが、郷中では稚児組が木銃、二才組が銃剣をかつぎ、オランダ太鼓に合わせて歩調をとる洋式軍事調練を導入しました。

藩校造士館では、今までの学風に固執する弊害を排し、徳育とともに学問を情勢に適合し、実学を重視しました。さらに藩内にとどまっているだけでは見識が狭くなり、井の中の蛙になる。藩の外に出て他藩の士と切磋琢磨すべきとして、優秀な人材を選抜し、他藩への遊学を奨励しました。遊学生の選抜では、本人が真剣に修学する志の有無が重要であり、そこを見極めて決定するようにしたそうです。航海学、外国語、砲術、漢学、医学といった専門分野の習得のため、各地への遊学も命じられました。

安政4(1857)年、斉彬はイギリス、フランス、アメリカの3か国に留学生を派遣させる密命を下しましたが、斉彬が急逝したため実現できませんでした。しかし7年後の慶応元(1865)年、五代友厚の建言によって斉彬の遺志を継承し、15人の留学生と4人の使節を密かにイギリスへ派遣させました。国禁を侵しての密航です。彼らはイギリス人から「薩摩スチューデント」と呼ばれました。留学を終え帰国した彼らは、日本の近代化に大いに貢献しました。

一癖ある人材を育てる

斉彬は家督相続後、「不満に思うことがあれば、遠慮なく意見を申し聞かせてほしい」と通達を出し、広く意見を募りました。

これによって西郷隆盛は農政意見書を提出します。西郷は郡方書役として現場で農民の実態を見、農民と苦労を共にしていました。それだけに藩の農政に批判的でした。忌憚のない西郷の意見書に目が留まり、それがきっかけで西郷は中御小姓に昇進、斉彬の参勤交代に従って江戸出府後、庭方役に任じられました。

 西郷隆盛というと、その風貌から、小事にこだわらず清濁併せ呑む大度量の人というイメージがありますが、若い頃は意外にもそうではなく、好悪の情の激しい人物だったようです。西郷が斉彬に抜擢されるのは安政元年28歳の時ですが、斉彬が西郷を抜擢しようとした時、西郷は粗暴で、人間関係もよくないという、西郷の起用に反対意見が噴出したそうです。
にもかかわらず斉彬は西郷を抜擢しました。

斉彬は「君主たる者は公平無私であること、愛憎の念を持たないことを要する」と語り、人材登用と活用について「一癖ある者でなければ、役に立たない」「そもそも、一つの才能、一つの技能も持っていない人は存在しない」「その長所・短所を見抜いて用いるのは君主のつとめである」「勇気と決断力のない人は事をなすことはできない」と述べています。

庭方役として取り立てられた当初の西郷は、農政には通じていたものの、視野が狭く世界情勢には疎い状態でした。斉彬は西郷に地球儀を見せ、欧米列強の迫りくる中での日本のあり方、世界観、政治のあり方について、直々にOJTを通じて育成し薫陶したのです。
斉彬は松平春嶽に「自分には多数の家来がいるけれども、だれも間尺に合う者がいない。ただ西郷だけは薩摩にとって貴重な宝だ。しかしながら彼は独立の気性があるために、彼を使える者は、自分しかいない」と語っています。
後に維新の立役者となる西郷ですが、斉彬と出会い、師弟の交わりがあったからこそ大きく開花したのでした。

<斉彬の治世の要訣>
一. 人心が調和して円満であるのは政治において最も重要なことである。
一.「民富めば国富む」という格言は、君主たる者が一日も忘れてはならない。
一.君主たる者は公平無私であること、愛憎の念を持たないことを要する。
一.そもそも一つの才能、一つの技能も持っていない人は存在しない。
      その長所・短所を見抜いて用いるのは君主の務めである。
一.過去のことに鑑みて将来のことを計画せよ。
一.勇気と決断力のない人は事をなすことができない。
一.一癖ある者でなければ、人は役に立たない。
一.天下の政治が変革されなければ外国と交流することはできない。
一.衣食に困る人がいなくなることで国政は達成される。
一.下の者の気持ちを上の者が理解することは政治の要である。

近代化・工業化に取り組む

斉彬は世子だったころから、世界の情勢を注視し、欧米の科学文明が優れていることを知り、富国強兵をもって国家百年の計と考えました。とりわけ科学の振興、洋式産業の創始を思い立ち、オランダから多くの書籍を取り寄せ、これを蘭学者に翻訳させ、自らこれを指揮しました。

磯別邸に隣接する竹林を切り開き、反射炉や溶鉱炉、火薬、硫酸、硝酸、地雷、水雷、紡績、ガラス工場、活版印刷、蒸気機関研究所といった、さまざまな工場を建設。1200名もの人が働くこの工場群を集成館と名付けました。
このほか鹿児島城内では電信実験、ガス灯実験、食品加工(保存食のパン、ビスケットや白砂糖、氷砂糖)の研究、製造が行われました。他のアジア諸国とは違い、驚くべきことにこれらの事業は外国人技術者の指導によらず、薩摩の技術者や職人が独学でやっていました。
写真技術でも先駆的で、斉彬自らモデルとして撮影した写真が現存する日本最古の写真として残されています。
また実現できませんでしたが、医療体制の充実を図るべく、地域ごとに病院の建設も計画されました。

洋式船の建造

造船については斉彬の藩主就任時、大船建造が禁止されていたため、国内には沿岸航海用の和船しかありませんでした。これでは西欧列強の蒸気船軍艦に到底太刀打ちできません。
藩主就任の年に土佐の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、藩士に造船技術を学ばせ、洋式帆船「いろは丸」を完成させます。さらに西洋式軍艦「昇平丸」を建造して幕府に献上します。黒船来航前から蒸気機関の国産化を試み、日本初の蒸気船「雲行丸」を完成させます。斉彬は日の丸を日本の総船印として幕府に提案。幕府はこれを容れ、万延元(1860)年には国旗へと昇格させます。

技術立国日本のさきがけ

安政5(1858)年3月、カッテンディーケら長崎海軍伝習所のオランダ人教官たちが、幕府の軍艦、咸臨丸で鹿児島に来航した際、集成館を訪れ、これが日本人たちだけの手で築かれたことに驚嘆したそうです。
当時の日本は鎖国体制のため、藩が勝手に西洋から必要な物を輸入したり、専門家を招聘することができませんでした。オランダの書物だけを参考にし、そこに書かれた内容と日本の技術とを融合しながら、手探り状態で苦労して造り上げました。その後、通商が許され、蒸気機関・蒸気船が輸入されたとき、技術者たちは、それをすぐに使いこなし、修理や改修をこなすことができたそうです。

書物や図面だけで、これまで見たこともない実物を造り上げていく。この経験こそがその後の日本の近代化・工業化を大きく前進させ、やがて技術立国日本へとつながっていきました。島津斉彬こそ、まさに文明開化の父といえるのではないでしょうか。

【参考資料】
『島津斉彬公伝』池田俊彦著(中公文庫)、『島津斉彬』松尾千歳著(戎光祥出版)
『島津斉彬公の思いと偉業』(一般財団法人岩崎育英文化財団)

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■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
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自在株式会社 代表取締役 
根本英明

労働関係団体を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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