日本の開化列伝~
第4回:明治の開化期を支えた長崎海軍伝習所

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。今回は勝海舟も学んだ長崎海軍伝習所を取り上げます。

2020年11月19日

黒船来航で危機感に目覚めた幕府

嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令官、マシュー・ペリーが黒船4隻で浦賀に来航。ペリーは久里浜に上陸し、アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を浦賀奉行に渡しました。国書はアメリカと日本との通商、開港を求めるものでした。
国書を手渡したペリーは、富津・観音崎を越えて、羽田沖に艦隊を進め、江戸湾の測量を行いました。ペリー来航は、オランダからの別段風説書によって、早くから伝えられていたにもかかわらず、なすすべがなく、こうした事態は幕府・諸藩の海防体制の限界を示すものでした。

ペリーは来春、再び来航することを伝え、9日後の6月12日、ようやく退去。この出来事は、惰眠をむさぼっていた江戸幕府の目を覚ましました。
老中阿部正弘は、アメリカ合衆国の国書を開示し、ペリー再来航に備えて、朝廷、諸大名から市井にまで広く意見を募りました。これに対する意見書は幕臣、陪臣、浪人、庶民に至るまで800通を超えたといいいます。そうした意見書を出した一人に勝海舟がいました。
「海防を強化し、外国と交易を行い、その利潤で軍艦を建造すべき」との勝の意見書が幕閣の目に留まり、後に勝は幕府海軍創設に関わっていくことになります。  

提出された意見書のうちで大勢を占めたのが、西洋で唯一の通商相手国オランダに協力を要請するという意見でした。 

阿部正弘はペリー再来航に備えるため、軍艦蒸気船を江戸に配備することが急務と考えたものの間に合わず、翌年の安政元(1854)年正月にぺリーが再び来航。3月3日に横浜で日米和親条約を締結します。

長崎海軍伝習所の創設

ペリーが最初に来航して数か月後、幕府はオランダに軍艦2隻・銃砲・兵書などを注文しました。しかし、銃砲・兵書はともかく、いきなり軍艦を買ってもすぐに動かせません。
オランダは安政2(1855)年6月になって、日本の新艦注文とは別に、蒸気船スンビン号(観光丸)を日本に寄贈し、日本人に航海術を教える用意があると提案してきました。幕府もそれを受けて、7月に正式に伝習生を長崎に派遣することになったのです。

こうして長崎海軍伝習所が創設されました。創設の目的は寄贈されたスンビン号(観光丸)ならびに新艦ヤーパン号(咸臨丸)、エド号(朝陽丸)の3隻の乗組員の基幹要員の育成です。艦の定員は観光丸で100人、咸臨丸、朝陽丸でそれぞれ85名、計270名になります。これを一時に全員育成するのは大変であるため、基幹要員を各期に分けて育成することとしました。
伝習所総取締(所長)には幕府の目付・永井尚志(ながい なおゆき)が就任。 第1期生は、幕臣約40名が選抜され、各藩から百数十名が参加しました。
艦長候補者の3名は、旗本以上を予定し、幕閣が指名しました。彼らは学生長を命じられました。学生長は伝習生をまとめ、学校当局・教官と学生をつなぐパイプ役です。この3名の学生長の中の一人に勝海舟もいました。

指揮官はゼネラリストたるべし

オランダからはペルス・ライケンを団長とする第一次教師団が派遣されてきました。
開所に際して、永井は、ライケンに航海術、蒸気機関学、砲術、造船などといった伝習生それぞれの専攻を伝えました。伝習生がすべての科目を学ぶとなると多くの時間を費やすため、伝習生を専攻別に分けて学ばせようと考えたのです。それに対し、教師団長であるライケンは、専攻を早くから決めてスペシャリストにすべきではないと異を唱えます。「キャリア・オフィサーはゼネラリストであるべき」というのが彼の育成方針でした。スペシャリストは大切だが、特定部門でしか使えなくなる。それでは一艦の指揮官に向かないというのが、戦訓から得た持論でした。

こうした考えから、航海術や運用術といった軍艦の操縦だけでなく、造船や砲術、天測、数学、蒸気機関、語学などといった科目が、座学と実習で行われました。
ライケンによると、伝習生は中途半端に物知りで、あらゆることを学びたがったり、特定のことを中途から学びたがったりと移り気だったそうです。

第1期生が卒業すると、安政4(1857)年の春、永井尚志は1期生と共に観光丸を率いて江戸に戻り、築地に3月軍艦教授所を開きます。そこで伝習所卒業生を教師とする海軍教育を、長崎海軍伝習所と並行して開始しました。
同年8月、第一次教師団に代わり、カッテンディーケを団長とする第二次教師団がヤーパン号(咸臨丸)で長崎に到着。ライケンから業務引き継ぎを受け、2期生以降の伝習生の教育に当たりました。

この第2期生以降、幕府目付の木村喜毅が伝習所総取締(所長)となりました。
第2期伝習生には、幕臣として後に函館戦争で活躍する榎本武揚、薩摩藩からは後に大阪経済界の重鎮となる五代友厚、後の海軍大将・川村純義などが参加しました。後に敵味方となる者が、この時は一緒に机を並べて学んだのです。
第1期生の様子を事前に聞いていたカッテンディーケは、なるべく日本側の要求に応じようと、日本人が学びたがっている乗馬、活版術、羊毛の処理法といったことに対応できる教師を入れ、それぞれについて日本人に教えました。

そのほか、海軍軍人のハルデスに日本最初の近代工場となる長崎製鉄所の建設を計画させ、その後、造機を主とする教育を行いました。
第3期に来日した軍医のポンぺは医学伝習所を設立し、日本で初めて近代西洋医学を教えるとともに、付属の養生所では、身分や貧富を問わず、患者を診察したそうです。
これら3つは、互いに切り離せない関係にありました。

海軍伝習をはじめてみると江戸と長崎では距離が遠く、伝習期間も日本側が考えていたより長期のため、経費も予想以上にかかる。海軍要員の育成は江戸に切り替えたいということで、安政6(1859)年に長崎海軍伝習所は3期生の修了をもって閉鎖されました。創設して4年間に満たない短い期間でした。

明治の近代化の核となった伝習生

9年後に幕府が瓦解し明治新政府が誕生すると、伝習生出身者は、新政府から出仕の誘いがかかります。伝習所で学んだ知識が、明治になって近代化の核として大いに役立つことになったのです。
明治海軍の操練所・兵学寮は、伝習所出身者を幹部として発足しましたが、伝習生出身者は海軍にとどまらず、多方面で活躍します。
鉄道建設に当たっては、水準測量学を修めた伝習生出身者が必要とされました。彼らは測量と鉄道計画を担当し、明治5(1872)年、新橋、横浜間で、初めての鉄道が開通しました。さらに後の東海道線・中央線・東北線の東京を起点とする三大幹線の線路測量と事前調査を伝習生出身者が担いました。

日本の造船・重機は幕末にオランダ・フランスから幕府が導入した艦船の船体の造修施設に端を発しています。明治政府は幕府から受け継いだ横須賀製鉄所、横浜製鉄所、石川島造船所、長崎製鉄所を当初、官営工場として経営しようとするも、西南戦争後の財政再建のため、横須賀製鉄所以外の施設を民間に払い下げました。これらの施設には伝習所出身者が多く勤務していました。
長崎製鉄所は従業員付きで岩崎弥太郎に貸与した後、払い下げられ、三菱造船所となりました。それ以外にも気象、天体観測や測候でも活躍し、初代気象台長を務めたのも伝習生出身者です。さらに地図の整備、数学教育にも影響を与えました。
このように、今ある鉄道会社、製鉄所、造船会社など、日本の高度成長期を支えた多数の大企業が、長崎製鉄所にルーツを発すると言っても過言ではありません。人材育成機関として果たした役割は大きく、近代産業に必要なスキル要件とは何かが、ここで確立されたのです。

また、医学伝習所教官のポンぺは、医師にとって病人に身分の上下や階級の差別はなく、ただ病人があるだけであるということを身を以って実践し、後の長崎大学医学部の基となりました。
ポンぺは伝習生に「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、まず他の職業を選べばよい」という言葉を残しました。これは長崎大学医学部の校是となっています。
オランダ人が伝習を通して伝えた技術と文化的遺産は、明治以降の日本の科学技術発展の基礎をつくったのです。

参考資料:
『長崎海軍電伝習所』藤井哲博著、中公新書
『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ著、水田信利訳、平凡社
『幕末の海軍-明治維新への航跡』神谷大介著、吉川弘文館

バックナンバー

■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
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■第2回 近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬
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■第3回 
西郷隆盛はじめ幕末明治の指導者を育てた 薩摩の「郷中(ごじゅう)教育」
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden03/

自在株式会社 代表取締役 
根本英明

労働関係団体を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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