日本の開化列伝~
第5回:吉田松陰と「松下村塾」(前篇)

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。今回より2回に分けて吉田松陰を取り上げます。

2020年12月24日

9歳で藩主に進講した天才少年

 明治維新を遂行し、明治新政府を担った多くの逸材を輩出したことで知られる「松下村塾」。吉田松陰が実質的に塾長を務めたのは2年4カ月にすぎません。松陰はどのような経緯で塾を主宰し、そこではいったいどんな教育が行われたのでしょうか。2回にわたってお伝えしたいと思います。

 吉田松陰は安政3(1830)年、長州藩の下級武士、杉百合之助の次男として出生しました。幼名虎之助。杉家は好学の家でしたが、26石と微禄のため、ほぼ自給自足で農民と変わらぬ暮らしをしていました。幼少の頃は、父百合之助の野良仕事を手伝いながら、父から四書五経などを学びました、5歳の時、同居する叔父吉田大助に子供がいないため、養子となります。けれどもその叔父が29歳の若さで病死。6歳にして吉田家の当主となってしまいました。 

 吉田家は代々藩の山鹿流兵学師範の家です。6歳の松陰に山鹿流兵学教授という家職がそっくりのしかかってきました。そこでもう一人の叔父である玉木文之進から教育を受けることになります。玉木文之進は藩校明倫館の都講を務めた学者にして藩内各地の代官を務めた人物ですが、その頃は自宅に松下村塾という私塾を開き、近所の子供たちに学問を教えていました。吉田松陰の名声から、松下村塾は吉田松陰が開いたものと思われがちですが、松陰は3代目の塾長です。

 玉木文之進は松陰を吉田家当主としてはやく一人前の軍学者に育てようと、徹底的なスパルタ教育を行います。書物の開き方がよくないといっては体罰を加え、勉強中、顔に止まった蚊を払いのけただけで、思いきり殴られたという逸話があります。学問は「公」、顔に止まった蚊を払うのは「私の行為」だからというのです。現代ですといささか問題になりそうですが、超厳格な教育に加え、それ以上の期待に応える優秀な頭脳と並みはずれた努力の甲斐あって、数え年7歳で藩校明倫館に出仕、9歳で家学教授を務めます。11歳にして藩主毛利敬親の前で山鹿素行の『武教全書』の一節を講義します。松陰のよどみない講義に藩主敬親をはじめ皆驚いたそうです。数え年11歳(満9歳)は、今でいえば小学校3年生です。まさに神童というしかありません。

諸国遍歴の旅に出る

 嘉永3(1850)年、藩主に『武教全書』守城篇を講じ終わった後、願い出て九州平戸に旅立ちます。平戸藩は佐藤一斎門下の逸材といわれた陽明学者、葉山佐内が家老を務めていました。平戸に50日ほど滞在し、葉山佐内から80冊もの書籍を借り、それを読みふけり、大事な箇所を筆写しました。その中には西洋の歴史や国情に関する本などもありました。とりわけアヘン戦争で西洋の近代兵器と戦った清国の記録から西洋兵学に対する関心を高めると共に、世界情勢の中で日本の置かれた立場に強い危機感を抱きます。

 嘉永4(1851)年3月、藩主敬親が参勤交代で江戸へ上がる際、遊学生20名が加わることになり、その一員に選ばれます。江戸では藩主への進講、藩士への講義の傍ら、著名な学者を訪ねるのですが、会ってみるといずれも「師とすべき人のなし」と友人に手紙を書き送っています。そんな中、佐久間象山と会い、「進んで開国し、外国の知識や技術を受け入れるべき」との考えに感服し、以後師事することになります。

 この年の暮れ、松陰は友人の熊本藩士宮部鼎蔵と5カ月にわたり東北旅行に出かけます。津軽海峡を往来するロシアの黒船に対する危機感と諸国の見聞を広げるのが目的でした。しかしながら、藩の許可を得る前に出かけてしまったため、長州に帰国後、藩士の籍は剥奪され、「育(はぐくみ)」といって父の監視下に置かれることとなりました。
松陰ほどの人材を処分したことで心を痛めた藩主敬親は、松陰に10カ年の諸国遊学を促します。10日後に萩を出発し江戸に到着した数日後の嘉永6(1853)年6月、衝撃的な出来事が起きました。ペリー率いる黒船4隻の来航です。松陰は『将及私言』を書き、黒船来襲の対応策を藩主に差し出しました。

密航を企てる

 

 翌安政元(1854)年1月、ペリーは7隻の軍艦と共に再び来航し、修好を迫り、幕府は3月3日に日米和親条約を締結します。
「幕府がアメリカのいいなりになるのは、日本に力がないからだ。これからは外国の進んだ知識や技術を取り入れて、実力をつけなければならない。そのためには国禁を犯してでもアメリカへ行こう」―。松陰はこう決意し、ペリーの軍艦が停泊する伊豆下田に向かいました。

 3月27日の朝、下田港に上陸したアメリカ海軍士官に密航への想いを伝える「投夷書」を渡し、その夜、松陰は弟子の金子重之助と共に盗んだ小舟をあやつり、旗艦ポーハタン号に乗り移ります。この時、応対した日本語のわかるウイリアムスは「投夷書」を読んでおり、二人の勇気ある行動を称賛しつつも、これが幕府に知られることで条約が破棄されかねないことを懸念し、松陰の必死の願いを聞き入れられることができませんでした。
松陰の計画は失敗に終わりました。翌朝、下田役所に自首し逮捕されます。

 下田から江戸に護送される途中、高輪の泉岳寺の前を差し掛かった時、松陰は赤穂義士を自分に重ねて次の歌を詠みます。

かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂

 二人は死罪を覚悟していましたが、奉行所のお裁きは意外にも国元での蟄居という寛大な処分でした。実は二人の国を思う心と情熱に感激したペリーが、幕府に死刑に処しないよう働きかけたためです。二人は国元の長州に送られましたが、事の重大さに驚いた長州藩は、二人を投獄してしまいました。松陰は野山獄に、重之助は岩倉獄に入獄します。(次号に続く)

バックナンバー

■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
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■第2回 近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden02/

■第3回 
西郷隆盛はじめ幕末明治の指導者を育てた 薩摩の「郷中(ごじゅう)教育」
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden03/

■第4回 
第4回:明治の開化期を支えた長崎海軍伝習所
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden04

自在株式会社 代表取締役 
根本英明

日本ILO協会(現ILO活動推進日本協議会)を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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