日本の開化列伝~
第6回:吉田松陰と「松下村塾」(中篇)

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。今回は全3回の2回目です。

2021年1月27日

夢のお告げ

 吉田松陰の入獄した野山獄は士分が入り、岩倉獄は士分以外の庶民が入る獄でした。野山獄は規律がわりと自由で、親族が差し入れでき、食料も自己負担でした。一方、岩倉獄は衣服も食事も満足に与えられない過酷な環境にありました。
獄中で松陰は不思議な夢を見ます。夢の中で神人が現れ、松陰に紙を渡すとたちまちのうちに姿を消してしまいます。受け取った紙を見ると「二十一回猛士」とありました。

夢から目覚め、思い返してみると、松陰の実家、杉家の「杉」の字の偏の「木」は「十」と「八」、つくりは「三」、このように分解して合計すると「二十一」。家を継いだ吉田家の「吉」を分解すると「十一」と「口」になり、「田」を分解すると「口」と「十」になります。強引ですが、これも合わせると「二十一」、「口」が2つで「回」になります。さらに松陰の本名、寅次郎の寅は虎です。虎の徳性は猛きことにあります。この夢を見て松陰はこう決意します。「自分は身分も低く体も弱々しい。猛々しい虎を師としなければ、どうして立派な武士たり得ようか」

 松陰は、この夢を「二十一回、猛々しいことをせよ」との神のお告げと受け止め、以降、自らを「二十一回猛士」と号するようになります。「自分はこれまでの人生ですでに3回猛々しいことをやってきた。21から3を引くと18。あと18回、猛々しい行動を取るのだ」と。
一方、金子重之助は江戸から萩に護送される途中、病にかかり、岩倉獄に入獄して2カ月半後に25歳の生涯を閉じました。松陰は共に命を懸けた同志が志半ばで亡くなったことを深く悲しみ、自分の食事を節約し、余った費用を金子の遺族に送りました。

牢獄を学び舎に

 野山獄には松陰を含め12人の囚人がいました。この牢獄には二人の罪人以外は、囚人といっても家族から扱いにくい厄介者として、牢に入れられている人たちでした。獄中生活3年から19年、中には49年間も獄中で生活している人もいました。彼らは生きて出獄できる見通しもなく、獄内には絶望と暗いよどんだ空気が漂っていました。
  松陰は最年少の25歳で、他の囚人に比べてはるかに若く、風采も上がらず貧弱だったため、当初、囚人たちからは見下されていました。が、日が経つにつれて、ただ者ではないということを感じ始めてきました。元藩校明倫館の教授であり、さらに全国各地を歩き、国内外の情勢にも詳しく、これほどの知識人は萩城下にいません。囚人たちから請われるままに話をするうちに、自然と松陰の話を聞こうという雰囲気が獄内で生まれてきました。  

やがて松陰は、「みなさんはそれぞれ得意なものをお持ちです。それをお互いに教え合うのはいかがでしょうか」と囚人たちに勉強会を提案します。在獄4年の富永有隣はかつて藩主の前で『大学』を講義したほどの儒学者でしたが、癖のある性格で、周囲や家族からも嫌われて入獄していました。学問だけでなく書も上手かったため、松陰はいやがる富永を説得して書道の師匠になってもらいました。俳句に詳しい在獄7年の元寺子屋の先生は俳句の師匠となり、獄中での句会には牢番たちも一緒に参加しました。松陰は皆に請われ、『孟子』の講義を始めました。これには牢役人も牢屋の外に端座して聴講しました。やがてほとんどの囚人が何かの師匠になり、互いに勉強し合うことになりました。牢獄が一転して学び舎になったのです。  

人は自分の長所を認められ、人様の役に立っていることが実感できると、喜びや生きがいが生まれます。互いの学び合いを通じて、囚人たちは生きる希望を取り戻し、獄内の風土は一変しました。
  松陰は、人の本性は善であり、罪人といえども教育によって善導できることを強く確信していました。牢獄を社会復帰の施設にすべきであるとし、その学習計画まで立てています。また人には賢愚はあると言っても、だれにも一、二の優れた才能が備わっており、努力してこの才能を開花させることができると述べています。松陰は「地獄」にもひとしい牢獄を人間回復の場である「福堂」へと見事に変えたのです。この獄中での勉強会の経験が後に「松下村塾」へとつながっていきます。

『講孟余話』の誕生 

 入獄して1年2カ月後、藩主敬親のとりなしもあり、病気療養の名目で、実家の杉家に引き取られることになりました。
 出獄後、松陰は藩に働きかけて野山獄の囚人の釈放運動を行いました。その結果、ほとんどの囚人が釈放され、その後、彼らはそれぞれ立派な生涯を送ったといいます。松陰は長く投獄するだけでは囚人の転向につながらないとの持論を持っていました。
  野山獄での孟子講義は34回に及びました。その傍ら、約600冊にも及ぶ書物を読んでいます。

出獄した翌々日から、家族の強い勧めにより、途中で終わった孟子講義の続きを、三畳ほどの部屋で家族を相手に行うことになりました。その後、親戚や評判を伝え聞いた近所の若い人たちも加わって、半年かけて全編を講じ終えました。この講義が松下村塾につながる重要なきっかけとなりました。
 講義が終了して5日後に原稿をまとめたのが『講孟余話』です。「経書を読むにあたって大事なことは、聖賢におもねらないことである」で始まるこの書は、たんに『孟子』をそのまま解説したものではなく、松陰による独自の考えが述べられています。この講義の評判はやがて、城下にも広まっていきました。(つづく)

バックナンバー

■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
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西郷隆盛はじめ幕末明治の指導者を育てた 薩摩の「郷中(ごじゅう)教育」
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■第4回 
第4回:明治の開化期を支えた長崎海軍伝習所
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■第5回 
第5回:吉田松陰と「松下村塾」(前篇)
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自在株式会社 代表取締役 
根本英明

日本ILO協会(現ILO活動推進日本協議会)を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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