日本の開化列伝~
第7回:吉田松陰と「松下村塾」(完結篇)

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。
幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。今回は全3回の結びの回です。

2021年3月4日

松下村塾の始まり

 松下村塾は吉田松陰が創設者だと思われがちですが、もとは伯父の玉木文之進が開いた村塾で、松陰も幼少の頃、そこで学びました。その後、文之進が藩の代官になったため、親戚で隣家の久保五郎左衛門が引き継ぎました。当初、松陰の講座は久保塾と同時並行で行われていましたが、合併して松陰の松下村塾となりました。

 松陰は塾を始めるにあたり、理念として「華夷の弁」を明らかにすることを掲げました。江戸時代、儒学は全盛期を迎えましたが、儒教とともに入ってきた思想に華夷秩序というものがありました。これは中国が世界の中心の華であり、その周辺に東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)という異民族があるという考え方です。日本でも江戸では華やかな文化が花開き、人材も集中し、繁栄を謳歌しました。花のお江戸から見れば、長州の松本村は僻地でした。そのような中にあって松陰は、自分の生まれ育った地に劣等感を持つ必要はなく、その場で励めばそこが「華」だというのです。

 松陰の講義の素晴らしさが評判となり、入門したい者が続々とやってきました。松陰はこの塾から「天下を奮発震動」させる人材が輩出するだろうと予言し、実際に幕末維新で活躍した幾多の英才を輩出しました。

年齢、学力も異なる塾生が共に学ぶ

 松陰が注目すべきことは、入門してくる人たちを身分や年齢で差別せず、対等に扱ったことにあります。高杉晋作のような上級武士の子もいれば、松陰最後の肖像画を描いた松浦松洞は魚屋の子でした。「来る者は拒まず」で、どんなに身分が低い者でも、学びたいといってくれば入門を許しました。そのためすでに藩校でかなりの学識を身に着けた者、水準以下の者など、実に様々でした。そこで塾では学習を、講釈・会読・順読・討論・対読・看書・対策・私業に分けて行いました。

 「会読」は、「大学会」「孟子会」というように、教科書の内容によってグループに分かれて行うもの。「順読」は、「輪講」とも言い、塾生が順番に講義をして質問に答える演習です。

 「対読」は松陰と塾生、読書力のある先輩と弟弟子が、机を隔て一対一で向かい合って読む個人教授です。「看読」は自習。「対策」は塾生に課題を与えて答案を書かせ、松陰が批評し添削する作文指導の一種ですが、これによって人物の個性が観察できました。「私業」は任意の読書で、読了後に皆の前で所感を述べ、批評を受けました。

人間は皆平等

 さらに松陰は学問をするうえで、身分意識など余計なもので、人間は平等であるとの信念がありました。

 その一例として、登波(とは)という女性を松下村塾に招き、彼女が夫と共に父や兄を殺した浪人を追い、夫が病死の後、ついに仇討を果たした顛末を塾生と共に聞くといったことがありました。塾生たちは登波の話に感激し、揮毫を求めたりしたそうです。登波夫婦は被差別民でした。

 人の縦関係を否定する松陰は、みずからも師弟という表現を使いませんでした。松陰は、塾生たちと友達のように親しく交わり、教え方も親切で言葉も丁寧だったそうです。だれもが「先生はとてもやさしい人だった」と後に語っています。

 松陰は塾生を「諸生」「諸友」と呼び、自分のことを、「僕」という言葉を使っています。日本で最初に「僕」と言ったのは松陰です。

 松陰の「諸生に示す」という一文には次のようなことが書かれています。
「村塾が礼儀作法を簡略にし、規則もやかましくいわなかったのは、そんな形式的なものよりもっと誠朴忠実な人間関係をつくり出したかったからだ。新塾が初めて設けられて以来、諸君はこの方式に従って相交わり、病気の者がいれば互いに助け合い、力仕事が必要な時はみんなが力を合わせて家族同様に協力した。塾を増築した時、大工の手を借りずにそれを完成させたのもそのあらわれである…」

 松陰は塾生たちに机上での学問だけでなく、共に米をついたり、畑を耕したりする時間を持つよう心掛けました。塾の増築も塾生たちと共に行いました。大工を雇う資金に乏しかったという理由もありますが、それよりも労働の尊さを、身を以って学ぶように仕向けたのです。塾生たちとともにそうした作業にあたることを「相労役」と呼びました。

長所を引き出し、やる気を高める

 松陰は塾生一人ひとりを観察してその資質を見抜き、長所を引き出し、ほめるところは褒めて励ましました。相手の境遇や性格によって助言の仕方もそれぞれ違っていたようです。

 伊藤利助(博文)については、「中々周旋家になりそうな」と言いましたが、伊藤はやがて初代内閣総理大臣になります。

 松陰はまた「志」と題する言葉を塾生たちに示し、その個性に従って志を立てることを勧めました。「志を立ててもって万事の源となす」―。立志こそが松下村塾の標語でした。
 
 第一次伊藤内閣で初代司法大臣となり、日本法律学校設立に関わった山田顕義は、14歳で元服した際、松陰から次の漢詩を贈られました。
 立志は特異を尚ぶ  (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
 俗流ともに議し難し (世俗の意見に惑わされてもいけない)
 身後の業を思はず  (死んだ後の業苦を思いわずらうな)
 且く目前の安きを偸む(目前の安楽は一時しのぎと知れ) 
 百年は一瞬のみ   (百年の時は一瞬に過ぎない)
 君子は素餐するなかれ(君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように)

 松陰は塾生の中の低い身分に生まれた優秀な者を藩に推薦し、彼らに活躍の場を与えるよう働きかけました。松下村塾出身者が、幕末・明治を通じて、数多く重要な位置についたきっかけは、育てた人材を世に送り出し、行動させることまで考えていたこともあります。

  巣立っていく塾生たちを松陰は「志士」と呼び、必ず「送序」を贈って励ましました。この送序は単なる激励文ではなく、自分との出会いを語り、本人の性格、資質の長所短所を教え、揺れ動く時勢を述べて、そこに対処すべき志士としての心構えを説き、別れの言葉で締めくくるというものです。

飛耳長目

 松陰は塾生たちに飛耳長目(ひじちょうもく)ということを教えました。耳を飛ばし、目を長くせよとは、広い範囲に関心を抱いて、世の中の動きをなるべく詳しく知っておけという意味です。

 正しい情勢をつかむにはあらゆる情勢が必要です。自由に動けなかった松陰に代わってそれをやったのが塾生たちでした。彼らは松陰の分身として江戸や長崎など各地に遊学した際、そこで得た情報を文書にして出すよう命じています。懐の乏しい遊学生にとって、飛脚賃は負担です。その通信費を藩に出してやるよう進言しています。松陰は情報の価値を痛感していました。その結果、松下村塾にいながら相当な情報を集めていました。

塾の閉鎖

 安政5年4月、井伊直弼が大老に就任し、日米通商条約を朝廷の勅許を得ないままに断行。6月には紀州藩徳川家茂を将軍の座に据え、反対派を排除しようとしました。ハリスの脅しに屈し、外国人の治外法権を認めるなど、不利な条件での条約に調印した幕府に失望し、松陰は討幕の決意を固めます。そこで井伊大老と行動を共にする老中間部詮勝(まなべあきかつ)要撃策を立て、武器弾薬の提供を藩に願い出ます。これにあわてた藩の重臣周布正之助によって松下村塾は閉鎖され、松陰は杉家に蟄居、さらに野山獄へ投獄されました。門下生の多くは、閉鎖前に半ば松陰の意思により、松下村塾を巣立っていきました。塾を出ていく塾生たちに、松陰は必ず「送序」を送って励ましました。

草莽崛起(そうもうくっき) 

 野山獄の獄中から、江戸の門下生たちに間部暗殺計画への参加を求めた手紙を出しました。しかし彼らからの返事は、「時期尚早、自重すべき」との内容で松陰を失望させます。そんな中、門下生の入江杉蔵と弟の野村和作はあくまで松陰を慕い、かわるがわる野山獄を訪れ、落ち込む松陰を慰めます。彼らは軽輩の足軽でした。

松陰は、強大な幕府を倒すことを、はじめ藩に期待しました。けれども古い封建体制から脱せられない藩に失望し、こうなったら草莽崛起(そうもうくっき)、すなわち在野の人たちが立ち上がって変革を起こすしかないと思い至りました。

 松陰は獄中から、友人の北山安世宛ての手紙に、ナポレオンを生き返らせてフレーヘード(オランダ語で自由)を声高く叫ばなければ、とても腹の気持ちが抑えられないと書き送っています。

死後、蒔いた種が実を結ぶ

 やがて松陰を江戸へ護送せよとの幕府の通達で、江戸に護送されます。評定所から呼び出しがかかり、取り調べがあっけなく終わろうとした時、松陰は聞かれもしない間部要撃策を口走ってしまい、その結果、死罪に処せられることになります。処刑前日、遺書ともいえる『留魂録』を書き上げます。感動的な部分をご紹介します。

「私は三十歳、四季はすでに備わっており、また花咲き実は結んでいる。それが実のよく熟していないもみ殻なのか、成熟した米粒なのかは、私の知るところではない。もし同志のなかで私の志を受け継いでくれる人があれば、それはまかれた種子が絶えないで、穀物が年から年へと実っていくのと変わりはないことになろう。同志の人よ、どうかこのことを良く考えてほしい」

 翌日、伝馬町牢屋敷にて刑死。享年三十でした。松陰の死は、門人たちの胸中に劇的な変化を起こしました。彼らは松陰の蒔いた種をしっかり受け継ぎ、数年後、日本の歴史を大きく転換させていったのでした。

参考資料:『松下村塾』(古川薫著、講談社学術文庫)
     『日本の名著 第31巻 吉田松陰』(中央公論社)

最後に
「松下村塾」に倣い、「世界のための日本のこころ」についてZOOMで学ぶ日本型リベラルアーツ塾を開塾することといたしました。
ご興味のある方は、下記宛にメール下さい。
E-mail : jpkokoroinfo@gmail.com

バックナンバー

■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden01/

■第2回 近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden02/

■第3回 
西郷隆盛はじめ幕末明治の指導者を育てた 薩摩の「郷中(ごじゅう)教育」
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden03/

■第4回 
第4回:明治の開化期を支えた長崎海軍伝習所
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden04

■第5回 
第5回:吉田松陰と「松下村塾」(前篇)
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden05

■第6回 
第6回:吉田松陰と「松下村塾」(中篇)
https://kaikaproject.net/column/kaikaretsuden06

自在株式会社 代表取締役 
根本英明

日本ILO協会(現ILO活動推進日本協議会)を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

この執筆者へのお問い合わせは以下問い合わせフォームよりご連絡ください。
https://kaikaproject.net/contact/

pagetop