日本の開化列伝~
第8回(最終回):緒方洪庵と「適塾」

今、コロナ禍をきっかけに私たちの働き方、生活のあり方が大きく問い直されています。危機は新たな未来へ向けて開化(開花)するチャンスでもあります。そこで大きく時代が転換した過去の事例を振り返ることで、現代に通じる学びのヒントが何か掴めるのではないか――。

幕末、明治、大正と、時代の転換期に果敢に挑んだ6人の人生と事業から、現代の私たちの生き方を照らしていきたいと思います。今回は最終回、緒方洪庵を取りあげます。

2021年3月31日

■万民を救う“医の道”を志す

緒方洪庵が大坂(現在の大阪)で開いた適塾は、幕末の蘭学塾にあって天下に鳴り響いていました。塾生は青森と沖縄を除き、北海道から九州まで全国津々浦々からきていました。ここで学んだ多くの人材が幕末から明治にかけて活躍し、新時代の開化に貢献しています。

緒方洪庵は、1810(文化7)年に現在の岡山市足守で生まれました。父親は足守藩の家臣です。足守藩は石高2万五千石、領民約1万7千人、禄や扶持を与えられていた者が6百人程の小さな藩です。 

洪庵が16歳で元服の後、父が大坂の藩の留守居役となり、父に従って大坂に出ました。 翌17歳の時、大坂の蘭学医、中天游が開いた思々斎塾に入り、西洋医学の修業を始めます。 当時、医師は身分制度の外に置かれ、「方外(ほうがい)の徒」とされ、一段低く見られていました。

武士の子でありながらなぜ西洋医を目指したのでしょうか。洪庵は三男ですので家督を継ぐことができず、自立の道を探らなければなりませんでした。さらに武士であることに対するこだわりが薄かったのかもしれません。洪庵が医学の道を志すにあたり、両親に承諾を求めるための置き手紙が遺されています。 

「私は生まれつき体が弱く、武士に適していないため、3年前から医師になることを考えてきましたが、それを不孝と考えて申し上げませんでした。しかし、無為に過ごして人の嘲りを受けるのも、また親不孝だと思いますので、3年間の暇をもらって医術を学ぶことを許していただきたい。“医の道”は、疾病を治し、万民を救う方法なのです」

洪庵が手紙を書く4年前、日本で初めてコレラが大流行し、西日本中心に大多数の死者が出ました。当時、コレラのことを「三日コロリ」と言っていました。罹患して三日で死ぬからです。  

その直後、ドイツ人医師シーボルトが来日し、長崎のオランダ商館付き医師となりました。シーボルトは長崎奉行の知遇を得、鳴滝塾を開き、医学教育を行います。これがきっかけで蘭学が大いに発展します。洪庵が医師を目指した理由には、こうした影響もあったのではないかと思います。

「天下の一大事」黒船来航―医学にとどまらず西洋学者の養成へ

3年後、中天游のすすめによって江戸に遊学、江戸では蘭学者、坪井信道の門下生となります。中天游の元で4年間蘭学の手ほどきを受けた洪庵は、坪井塾での勉学の進歩が著しく坪井塾の塾頭になります。その後、2年間の長崎遊学の後、大坂に戻り、1838(天保9)年、29歳の時に船場の瓦町に医業を開業するとともに「適塾」を開きました。同年、結婚し以降、25年にわたり医師、教育者として活躍します。 

大坂でも指折りの医師として名声が高まり、塾生も増え手狭になったため、より広い屋敷を求め、7年後に過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)に移転します。周辺は諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ地域です。洪庵の蘭学医としての評判は全国にも知られ、諸藩からも往診の依頼が引きも切らず、診療と塾での教育に忙しい日々を送っていました。

ちょうどその頃、東アジアの情勢は、激変しつつありました。1840年から42年にアヘン戦争が起こります。清国がイギリスに敗れ、香港を割譲させられたことは、幕府に衝撃を与えました。次に来るのは日本ではないか、と。その10年後の1853(嘉永6)年、ペリーが黒船4隻で浦賀に来航。日本に開国を迫ります。その翌年、ペリーが再び軍艦7隻を率いて再び来航し、神奈川で日米和親条約を結びます。

洪庵はこの出来事に「天下の一大事」と危機感を覚えました。今やこれまでのように幕府の恩恵を受け、安楽に暮らしている場合ではない。そこで往診を減らし、教育に多くの力を注ぐようになります。また、これまで適塾では西洋医学の修得を目指して、医師の養成を行ってきましたが、これを機に、医学の枠を超え、西洋学者の養成へと方針を転換します。欧米列強に追いつき追い越すためには、欧米の進んだ科学技術を自らのものにしなければなりません。そのためにはまずオランダ語をマスターし、オランダ語に翻訳された欧米の専門書を読むことで、新しい知識を吸収することができます。

こうして洪庵は塾でオランダ語の学習と原書購読を徹底させたのでした。適塾は蘭学塾として、医師志望者だけでなく、さまざまな興味を持つ若者たちを塾生として受け入れていきました。

最盛期、適塾には毎年30名以上が入塾し、100人を超える塾生が学んでいたそうです。塾生は累計で3,000人にも上ります。また、入塾者は蘭学の初心者から医師や学者までさまざまでした。

適塾で学ぶ目的は、オランダ語をマスターして原書を読めるようになることです。現在のような修学年限はなく、自身が納得するまで塾生でいることができました。また入塾のための学力試験もありませんでした。むしろ学費が払えるかどうかが重要であり、身元引受人も必要とされました。

自らの頭で考え議論し、正味の実力を養う

当時、オランダ語を学ぶことは、現在の英語を学ぶことに比べて、学ぶ手段が限られていました。

適塾では洪庵が直接、初心者に講義をするのではなく、上級生が下級生をマンツーマンで指導するという方式を取っていました。初心者はまず、アルファベットを覚え、次に文法と構文を学び、指導を受けながら簡単な文章を読解するという方式でした。

オランダ語の基礎を覚えると、「会読(輪読)」という講読会に入ります。塾生はオランダ語の読解力に応じてクラス分けされ、そのクラスごとにオランダ語の原書を読むのを会読といいます。クラスは8、9クラスに分かれていたそうですが、クラスごとに月6回の定例日を設け、籤(くじ)で席順を決めた後、首席者の塾生が数行の原書を翻訳して読み上げ、席順に質問して議論します。この要領で質問と議論を繰り返し、1問ごとに会頭が勝敗を判断します。勝者は白丸、敗者は黒丸、誤りなく読み終えた者は白い三角が与えられ、1カ月ごとに集計し、白丸が多い者を上席とし、上席を3カ月続けると進級できる仕組みになっていました。

塾生には通いと住み込みがいました。住み込みの塾生は二階の大部屋に畳一畳があてがわれ、そこで勉強し、寝起きしました。場所によって快適さは異なります。どの場所をあてがわれるかは、武士や農民といった身分とは関係なく成績によって決められました。成績は毎月発表され、成績上位者から好みの場所を選ぶようになっていました。そのため塾生たちは切磋琢磨して学んだということです。

適塾で塾頭まで務めた福沢諭吉は『学問のすすめ』で、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と述べていますが、この時の経験が影響しているかもしれません。

適塾の教育は他者の解釈や翻訳に依らず、自らの頭で考えながら知識を獲得していく方法でした。「正味の実力を養う」ことであり、そのためには身分制度を超えた実力主義が貫かれました。こうした切磋琢磨の結果、塾生の多くはオランダ語の原書をよく読めるレベルに達したということです。

適塾が育てた多彩な人材

洪庵は人づきあいが上手く、滅多なことでは人を叱ったりせず、柔和で温厚篤実な性格だったそうです。適塾を開いて24年後の1862(文久2)年、洪庵に幕府の奥医師として出仕の要請がきます。奥医師とは徳川将軍とその家族の医師で、当時の医師にとって最高の出世でした。しかしながら洪庵は住み慣れた大坂から離れることに気が進まず、多病を理由に辞退をし続けましたが、再三の要請に断り切れず、ついに江戸城に登城します。洪庵にとって城中での日々は、窮屈で気疲れしたようでした。翌年、多量の喀血で窒息死します。
 
洪庵の適塾で学んだ者の中には橋本左内や大村益次郎といった幕末維新の動乱で活躍した者、長与専斎や佐野常民のように近代医学に貢献した者、啓蒙家、教育者として活躍した福沢諭吉のような人材もいました。洪庵が適塾で育てた若者たちは、やがて自らの才能を開花させ、新しい時代を切り拓いていったのでした。

参考資料:
『緒方洪庵―幕末の医と教えー』中田雅博著、思文閣出版、『緒方洪庵』梅渓昇著、吉川弘文館、『人物で見る日本の教育』沖田行司著、ミネルヴァ書房、『新訂 福翁自伝』福沢諭吉著、富田正文校訂、岩波文庫

最後に
「地球人の意識の根っこに日本をもつ」すばらしさを共有する多数のリーダーの存在が、日本の将来にとって不可欠との認識の下、日本の歴史の中で蓄積されてきた人間力養成を狙いとする「日本型リベラルアーツ塾」自啓共創塾を開講します。ご興味のある方はどうぞ。 https://www.jpkokoro.com/

バックナンバー

■第1回 百年先を見据えた男――後藤新平
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■第2回 近代化の礎を築いた開明君主――島津斉彬
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西郷隆盛はじめ幕末明治の指導者を育てた 薩摩の「郷中(ごじゅう)教育」
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第5回:吉田松陰と「松下村塾」(前篇)
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第6回:吉田松陰と「松下村塾」(中篇)
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■第7回 
第7回:吉田松陰と「松下村塾」(完結篇)
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自在株式会社 代表取締役 
根本英明

日本ILO協会(現ILO活動推進日本協議会)を経て日本能率協会に入職。HRD分野の大会、研究会、シンポジウム、セミナーの企画運営等に携わった後、日本能率協会マネジメントセンターにて月刊誌「人材教育」編集長を約10年務め独立。
自在株式会社を設立し現在に至る。
一般社団法人世界のための日本のこころセンター共同代表・事務局長 キャリアコンサルタント

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